「二重国籍者の文学」 by 茂木健一郎
ー湯川薫 『百人一首 一千年の冥宮』ー 評論文
新潮社「波」2002年9月号20〜21頁
湯川薫は、竹内薫という本名で、科学書も書く。それならば、新作のミステリ『百人一首 一千年の冥宮』には、科学の知識がたっぷりと書き込まれているのだろう。そう思った読者は裏切られる。タロット、カバラ、平家物語の伝説、黒魔術、時空を超えた情念。物語をスタートさせ、進行させ、終結させるのは、一見科学とは無関係な人間の精神世界の住人たちである。もちろん科学の話も出てくるが、それは物語の味を増すスパイスに過ぎない。これは一体どういうことか? 湯川薫は、理系ミステリ作家ではなかったのか?
私自身は、湯川薫の作品は理系ミステリでも、新本格でもないと思う。彼の作品は、本質的に「二重国籍の文学」ではないかと思う。ここでの「二重国籍」とは、外国と日本というだけの意味ではない。科学とオカルト、あるいは犯人と被害者のように、一見相容れない、対立するように見えるものの両方に足場を置くということである。
二重国籍が国際法上本来許されないものであることは、誰でも知っている。それでも、実際に二重国籍になってしまう人はいる。そうなった人は、二つの母国というダブルバインドな人生を送らざるを得ない。もっとも、私の知る限り湯川薫自身は日本人であり、他の国籍を持ってはいない。一方で、彼ほど自らをダブルバインドな状況に置き、それを許容している人間もあまり見たことがない。いわば、湯川薫は概念上の二重国籍者であって、一見相容れない世界の間に危ういバランスを成立させるのが彼の生き方であり、その作品なのである。
私がこのように断言するのも、私と湯川薫は実は大学以来の友人だからである。文系と理系、外国と日本、そして科学と文学。時には相反するように見える概念世界の国境線上で揺れ動く彼の姿を、私は二十年間にわたって見てきた。
湯川薫の人と作品について考える時に、彼が少年期に父親の仕事の都合で渡米し、ニューヨークの小学校に突如として放り込まれた体験を忘れるわけにはいかない。彼の人生観に深い影響を与えた、アメリカにおける人種差別の実態(彼自身が被害者だったのではなく、友人のアフリカ系アメリカ人が差別された)。帰国子女として、遭遇した母国という第二の異国。そして、大学卒業後の、八年間にわたるモントリオールでの生活。事実上の二重国籍性を内に抱えて生きてきた彼にとって、『百人一首 一千年の冥宮』は、カミングアウトの作品だったのではないかと思う。この作品で、湯川薫は理系ミステリ、新本格というラベルを破り捨て、二重国籍者としての本性を露わにしたのである。
湯川薫の場合、二重国籍とは、なによりもまずアメリカと日本の間のそれである。作品中にも引用されている2001年9月11日の同時多発テロに対する彼の悲嘆は、ニューヨークが自分の肉体の一部として感じられる人間のそれである。日本とアメリカの二重国籍を持つと設定されている緒方真紀という悲劇のヒロイン像は、いわば、湯川薫のドッペルゲンガー(分身)なのである。
『百人一首 一千年の冥宮』を読んで印象付けられることの一つが、科学的論理性とオカルト的暗黒性の両立である。何故、竹内薫としてあれほど明晰な科学解説書を書く人間が、湯川薫としてこれほどまでに暗い情念の世界にこだわるのか? ニーチェのアポロンとディオニソスの二分法を持ち出すまでもなく、明晰と混沌はどんな人間にも潜む二重性ではある。しかし、近年の作家で湯川薫ほどその両者を持ち合わせた例は希ではないか。
科学を信奉する人間が、一方でオカルト的世界を書くのは裏切りだと思う人がいるかもしれない。そのような人は、湯川薫のような二重国籍者の心根を理解していない。一見矛盾する二つの概念世界に跨って、危ういバランスを取る。そのような生き方しか選択できない人間が世の中にはいるのだ。そして、湯川薫はそのような人たちのために書いているのである。
グローバリズム、市場主義、自由化。一つの考え方で世界を覆い尽くせると思いこみがちな現代において、敢えてダブルバインドな状況に自分を置く。二重国籍を解消しない。そのような生き方が、しんどいようで実は心地よく、味わい深いものであると思えるかどうか。湯川薫の作品を、リトマス試験紙だと思って読んでみれば良い。